株式会社金由の85年

“カネヨシ”ってちょっと変わった名前ですが・・・
 

“金物屋の由治郎”それが「金由」。
初代(現社長の祖父)が前田由治郎という名前でした。

 
 

その由治郎は京都の祇園のお茶屋さんで生まれ、今も残るその家は
雑誌やTVの京都特集にはお馴染みの家屋です。
その京都から何故東京に出てきたのかは定かではありませんが、
それは昭和のごく初期のことのようでした。


 由治郎は上京後まだ出来て間もない新橋演舞場内の食堂を
経営するようになりました。 新婚の妻りよは赤坂の料亭の娘。
気風が良くて面倒見の良い明治の女性でした。

 由治郎が新橋演舞場で働く合間に、りよは食堂で使うような雑貨を
自宅前で並べて商いをするようになったようです。


 少し前、東京は関東大震災で壊滅的な被害を受け、
特に銀座・日本橋界隈は焼け野原になっていました。


 時の内務大臣兼帝都復興院総裁の後藤新平はコレを機会に
「災害に強い東京」の建設を提唱し、当時としては破格の予算と規模で
都市計画を立てました。

 世界でも類を見ない壮大な計画は 区画整理、公園、幹線道路整備を
謳い、現在の東京の原型となっています。

 そして道の真ん中に緑地帯を有する44m幅の昭和通りが
出来たのでした。(当時は余りの広さに批判を受けたようですが、
戦時中はこの緑地帯に芋を栽培していたそうです。笑)



 由治郎はいち早くこの昭和通り沿いに店舗を構え、
京橋区木挽町(現、銀座1丁目)に
金物屋の由治郎の店と言う意味で、「金由商店」が誕生したのです。


 

こうして金由の店舗は後藤新平の意図通り、昭和通りに守られて
第二次世界大戦の戦災でも類焼を免れ、昭和56年に現在のビルに
建て直すまで銅板葺き木造3階建てのレトロな姿のまま残っていました。

  前田山陽ビル

 前田山陽ビル

 

昭和通り

 昭和通り

 

昭和4年はどんな年?

銀座はどんな街だったのでしょう
 
 

 昭和4年(1929年)は、1925年から始まったアメリカ発の株の暴落と「世界恐慌」の影響で日本でも不況の嵐が吹き荒れて失業者が増加しました。正に歴史は繰り返す・・ということでしょうか?


 銀座では大正12年の関東大震災で銀座や日本橋などはほとんど廃墟と化してしまったようですが、松坂屋・松屋・三越とデパートも相次いで出現し、歌舞伎座や新橋演舞場なども出来て、多くの買い物客やビジネスマンが集まってすでに文化と流行の発信地として賑わっていたようです。


 「銀ブラ」を楽しむハイカラな洋装のモガやモボと呼ばれる若者達、それに「ステッキガール」と呼ばれるモガを伴った文士達が銀座で豪遊する光景も見られたようです。
オシャレな男女が闊歩していた様子は、昔も今も変わっていないようです。


 当時の銀座は堀や川に囲まれた水の都でした。
その後地下鉄、路面電車などの交通網も発達して海外にも通用する、憧れと格式を持つお洒落な街になっていきますが、この銀座や築地、新橋に隣接する「木挽町」は、より粋で庶民的な活気溢れる土地であったと思われます。


昭和4年(1929年)この京橋区木挽町1丁目(現・銀座1丁目)で前田由治郎、りよ夫妻によって「金由商店」は誕生しました。

事業の変遷

時代と共に・・・
 
 

 創業から30年位は主に厨房用品や雑貨の販売で、銀座の飲食店や企業の方からご贔屓を頂きましたが、そのうち界隈にビルが多くなると2代目の前田正夫はビルメンテナンス関係や蛍光管、マット類の販売も手がけるようになりました。


 現在の3代目前田由雄がオフィス商社の兜カ祥堂でお世話になった後に入社してからは、文具、事務用家具の販売、そして事務所などの内装工事や引越し、レイアウトのご提案、設備工事などにも業種を広げて参りました。


 お得意さまも一般企業は勿論、官公庁、学校など多くを数え、また協力企業や職人などのネットワークも増え、本業以外にも色々な相談や情報が集まって来るようになりました。

 そして最近では「ここ、何とかならないかな?」「もっと便利にならないかな?」というようなご相談をよく承るようになりました。


金由はこのように時代の要求とお客様のニーズに合わせて変化、成長して参りました。

  「何とかならないかな?」に対して「何とかしましょう!」を会社の理念と掲げ、 より良いご提案とサービスをして参る所存ですので、今後とも宜しくお願い申し上げます。