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金由物語

“金物屋の由治郎”それが「金由」。
初代(現社長の曽祖父)が前田由治郎という名前でした。

初代 前田由治郎

その前田由治郎は明治27年に京都の祇園のお茶屋さんで産まれました。
今も八代目女将が守る、祇園でも由緒あるお茶屋さんを出て東京に移り住んだのは大正から昭和になって間もなくの頃のようです。

【昭和通り】

関東大震災で壊滅的な被害を受けた東京でしたが、これを機に防災都市の構築を目指した元東京市長で当時の帝都復興大臣の後藤新平は、現在の東京の基本形となる街作りを目指しました。

江戸時代から何度も大きな火災によって被害を受けてきた東京の改造計画では、区画整理と幅の広い道路や点在する公園など、破格の予算の為に予定の100メートルから44メートルに変更されたものの、当時最大幅の「昭和通り」はその象徴となるもので、最初に施工された事業でした。

そんな後藤新平の施策の甲斐あって、金由の家屋は戦時中の銀座を焼け尽くした火災でも類焼を免れ、昭和56年に現在のビルに建て直すまで、銅板葺のレトロな姿のまま残っていましたので、まさに90年間昭和通りに守られて今日まで営業を続けて来られたのだと思います。

因みに戦時中は中央のグリーンベルトに芋を植えて食料の足しにしていたという事で、こんなことでも昭和通りに助けられてきたと言えるでしょう。

【昭和4年頃の銀座】

金由商店が創業した昭和4年頃は、世界恐慌の影響で不況の嵐が吹き荒れてはいたものの、既に地下鉄銀座線が地下を走り、東京駅の裏玄関と呼ばれた八重洲口や日比谷公会堂が完成し、銀座には松屋、松坂屋、そして三越のデパート、歌舞伎座や新橋演舞場などが次々に出来て、多くの買い物客やビジネスマンが行きかう文化と流行の発信地として賑わっていたようです。

特に「銀ブラ」という言葉が認知され、モボ、モガが闊歩する銀座は洋行帰りの文士や画家の集まるカフェーが社交サロンとなり、「おしゃれ」「憧れ」という現在のイメージの銀座になって行きました。

そんな昭和初期、由治郎は上京以来、新橋演舞場内の食堂の経営を任されていましたが、昭和通りの完成後間もなく、京橋区木挽町(現在の銀座1丁目)に「金由商店」という荒物雑貨を扱う店を始めました。

【初代夫妻】

新婚の妻里代は、明治33年生まれの赤坂の料亭の娘。
日本舞踊や三味線が評判の、気風が良くて面倒見の良い、明治の女性でした。

金由商店の初期の発展は、この社交性と人情に厚かった二人の人柄によるものだったと思います。

日本舞踊や清本に精通する二人は、銀座の大旦那さん達との交流で得意先を広げ、
二人を頼って従業員も多く集まって来ました。
由治郎はどこに行くにも里代を伴い、夫唱婦随と評判の夫婦として生涯
仲良く過ごし、里代は96歳の天寿を全うしました。

左:初代の由治郎と里代 右:里代

【仕事の変遷】

昭和から平成、そして令和と時代は移り、金由の仕事の内容も変化をして参りました。

初代の頃は飲食の店や食堂などを主な得意先として、厨房で使う道具や消耗品を商い、 二代目の正夫はビル化の進む周辺の企業を対象として、掃除用品や電気製品、 マット類を扱うようになりました。

二代目の正夫

文具、事務用品の商社で修業をした後に入社した三代目の由雄は、オフィス家具販売、内装工事などに仕事の内容をシフトさせ、持ち前のサービス精神で「何とかします!」をモットーに、時代のニーズに合わせて参りました。

三代目の由雄と二代目の正夫

そして、四代目の前田雄史は事務家具メーカーに勤務した後に入社し、
事務所の引っ越しやレイアウト変更など、CADを使ってご提案したり、通信や
コンピューター関連を含む機能的なオフィス作りのお手伝いを得意としています。

また、企業のノベルティや記念品を扱う第2営業部を開設し、
「什器備品」「文具」「内装工事」「ノベルティ」を柱として、これらの複合の仕事を目指して
日々の研鑽を重ねて四代に渡る企業の精神を貫いて参りたいと思います。